川本真琴という才能
え〜・・・みなさんもご存知の通り、今日は悲しい出来事がありました。
思い返すのも辛いので、別のことを書きます。
出会いは一本のCMだった。
ブラウン管に映る彼女は、小さな体をいっぱいに動かして、
ギターをかき鳴らし、まるでなにかを訴えるかのように、言の葉を唱えていた。
矢継ぎばやに飛び出す言葉は、まるでリドルのようで、とりとめもなく、
ただ闇雲な単語の羅列のよう。けれどそれがメロディーに乗ったとき、
激しい感情の波に心ゆさぶられる。
初めて手にしたCDは、レンタルビデオ屋の放出品。
一度聞き、二度聞き、三度目聞いた時には心を奪われていた。
愛や恋、ドラマティックな感情を歌にするのはたやすい。
けれど彼女の曲はそうではなく、日常のふとした感覚、感情以前の感情、自分でもよくわからないモヤモヤしたもの、彼女はそれを歌っていた。
形になっていない感情を歌にする。当然形づくられた歌詞になどなろうはずがない。
巷で彼女の歌詞が「わけのわからない・・・」と言われたのはそれを表面だけ捉えたからなのだろう。
しかし彼女の曲は理屈ではないのだ。
彼女の曲を聴くときにしてはならないことは、歌詞を“読む”こと、意味を考えること。
そんな事は、彼女の歌ではなんの意味もなさない。
ただ聴く。心をからっぽにして、大音量のメロディーと歌詞のチャンポンを、一気に脳天にぶち込む。
そうすると感じる。 心が自然と理解してくれるのだ。
彼女の歌は、そうして聴くものなのだ。
彼女の曲にはあまりストーリーがない。そこにあるのは繊細な描写だ。
たった一枚のカンバスだけれど、どんな作品よりも繊細に描かれた描写。
開かれた世界に目を向けるでもなく、かといって、哲学者のごとく自分を探求するでもない、ただ普通に生きている。そんな日常のなかの描写。
普通なんだけれどもいつも壊れそうで、飛んでいってしまいそうなそんな世界を、一つ一つの襞までも繊細に描ききる。そういった描写こそが、彼女の曲の本質なのだ。
しかし決して見逃してはいけない。
曲の中にないストーリー。しかしそうした一つ一つの曲を集めたとき、
そこに大きなストーリーが描き出されていることを。
私には、「愛の才能」ではじまったストーリーは、「FRAGILE」でひとつの完結をみたと感じられる。
それまでに描かれてきた“なんかよくわかんない”感情が、「FRAGILE」に到った時、あいかわらず漠然としているけれども、
しかし悟りにも似た感情となって吐き出され、終着するからだ。
これはきっと彼女自身の成長に拠るところが大きいのだろう。
きっと狙ってそういうリリースをしていったわけではないのだろう。
だとすると、
彼女は自身も気づかぬうちに、彼女自身の“生き様(いきよう)”という大きなストーリーを描きあげたのだ。
私はそんな彼女の曲が好きだ。
新曲が出ると聞けば発売日にはCD屋に足を運び、ライヴがあると聞けば、西と言わず東と言わず、彼女のその歌を感じに行った。
そんな彼女も「ブロッサム」を最後に新曲の制作をやめ、事務所からも離れた。
複数バンド参加のライヴイベントなどでは、今でも歌っているとは聞いていたが、東京までの道のりを思い
私はもう何年もの間、彼女の声も、歌も聞くことがなくなっていた。
そんなある日の朗報だった。
7月5日には、朝日美穂・もりばやしみほとのユニット「ミホミホマコト」でのアルバムを
その後も「タイガーフェイクファー」名義で作品を発表する話もあるらしい。
今ならここ(http://www.aer-born.com/)で曲サンプルが聴ける。「ラバトでキャメル」が彼女の作曲だ。
彼女らしい曲だ、すごく期待している。
興味のある方はぜひ買ってほしい。きっと後悔しないはず。