仏教と供養ー残された人間がやるべきことー

 出張帰りにデーモン小暮閣下のラジオで先祖への感謝とか供養の話をしていたのだが、
仏教徒ではない俺は、墓参りや法事というものにあまり関心がなかったりする。
 別に墓なんて行かなくても亡くなった人のことを想い、その人から得た教訓やら反面教師な部分を生かすことこそ死者へのなによりの手向けだと思ったりもする。


 父が死に、母も難病でもう長くない俺にとって、死者への供養というのは決して他人事の話ではなくて、実際祖母やおじおばらとその件で揉めていたりもする。
ここに存在するのは、価値観の違いだ。


 新興宗教に対して忌避の念を抱く人は多いが、自分の信仰している宗教に関して全く違和感を持たない人は多いと思う。それが自分の父母、それ以上昔から存在した宗教ならなおさらだ。
しかし、どんな宗教でも最初は新興宗教だったわけで、しかもこの社会で力を持つまでの宗教というのは決して清廉潔白だから大きくなったわけではなく、その歴史の上で、大きな妥協や方向転換を経た上で民衆に受け入れられてきた側面がある。
正直なところ、それをふまえた上で仏教やキリスト教に傾倒している人、そしてそれを隣人に伝えようとしている人はあまり多くないかと思う。


 俺は、仏教を信仰していない。しかし俺だけでなくこれを読む多く人は、その両親に熱心な仏教徒の側面を持つ家族を持っていることかと思う。年配になればなおさらだ。
そういった仏教徒達は、墓に参り、寺に参り、宗教的な節目には線香を焚いて祖先を偲ぶのが当然と考えているようだが、その実仏教の行事にばかり目をやりすぎて、その行動の本質や歴史を本当に理解しているかと問えば、かなり胡散臭いところがある。そもそもほとんどの日本人が、慣習的に仏教徒になっただけであって、「仏教とは何か?」という観点からその宗教に入っているわけではないので当然のことである。


 では、最初の話に戻るが、先祖への供養とは何なのだろうか?
あらためて「供養」の意味を辞書で調べてみると、つまり生きている人間が良いことをして、
その善行によって、死者が死後の世界でうまくやっていけるように願うことなのだそうだ。(広辞林第六版「供養」「回向」より要約)
ここで言う良いことというのは、現在の仏教では、法事にお経をあげたりあげてもらったりする事や、線香を焚いたりお供え物をしたりという事のようだ。

 それにしても・・・「善行」を行ったとしても、死者の将来(?)を“願う”だけならば、あまり意味がないのではなかろうか・・・もっとも、その「善行」が死者の力になるのだとしたら、死んで善行を行えない死者にとっては、自分を下支えしてくれる子孫がいなくなるのは、さぞかし恐ろしい事だろう。
結局・・・(仮に死後の世界があるとして)死んでも自分の関与できない事におびえつつ存在してゆかなければならないというのならば、そんな苦しい思想を持つ仏教などには到底傾倒できないのだが・・・・


 俺はそんな厄介な思想などなくても良いと思う。
俺はただ死んでいった祖先が喜ぶ事をする事で、産んでもらったり、育ててもらったりの“借り”を返した気になって、自分自身を満足させられれば良いのだと思う。

 具体的に言うと、生きとし生けるものとして子孫を残し、わずかばかりでも死んだ者の言葉なり行動なりを教訓として活かし、ほんの少しでも充足した人生を送ることが、なにより死者に対しての義理だと思うのだが・・・・